ちび龍の修練場

文系総合職のふつーのビジネスパーソンが、食いっぱぐれないキャリア構築と、社会変革の両立を考えていく思考のラボ。

仮説:SNSと地方創生の共通点(1)

私がこれまで仕事でやってきたビジネスは、基本的には全てB to Bだ。しかし、社外でアクセスしてきた界隈や、自分の周りの人たちが興味をもっていたエリアはどうか、というと、行政からソーシャル系(ざっくり、地方創生と言っておく。言葉に手垢がついてしまった感は否めないが、分かりやすいので)、最先端テクノロジーサービス(WIRED好きな人たちとか。発売当初に迷わずアップルウォッチ買う集団とか。)まで幅が広い。

 

ただただあちこちに触手を伸ばして知り合いを増やした訳ではない。そのときの興味のアンテナがそっちに向いていたとか、そのとき考えていたことの仮説のブラッシュアップのために、都度アクセスする先が分野的に違っていたとか、相談したいことがあったとか、そういうことの結果である。

 

しかし、そうであるからこそ、これらの別々の分野が、点が線になるようにどこかで繋がったり、どこかの分野の課題の解決を、別の分野の当たり前の考え方で解決できたり、どこかの分野の課題が、別の分野の課題の先取りになっていたり、、、という発見がある。直感的に惹かれることの謎が、しばらくして解けていった経験がある。



まず私が地方創生系や行政に細々とアンテナが向け続ける一番の理由は、自分自身がこれまで及びこれからの人生において、基本的には社会に対してアクションをする際のポジションを敢えてビジネスのフィールドに決めていることに関係する。

 

私の父は公務員で、客観的に見て、少なくともその地元においては比較的優秀な部類に入っていた結果の就職だったと考えられる。父だけでなく、その組織に入る他の人もだ。まあ、今思うと全国のレベルからすればちょぼちょぼかもしれないが、子供の時は、時々父が漏らす「ダメな上司」の話を聞いて、「それなりに優秀な人たちの集まりのはずなのに、どうしてだろう」と不思議でならなかった。詳しいことまでは分からないが、父の仕事が何であるかを聞く宿題などから伺い知る限りは、中長期的にその地域、引いては世界を良くするための仕事をしており、そんなグダグダの組織でそれが達成されるのかな、と疑問に思った。

 

所詮、小学校低学年の立てた仮説なので大目に見て頂きたいが、「ビジネスの世界に生息している民間企業であれば結果にコミットするはず。中長期的に世の中を良くするミッションに、民間企業の側で取り組めないか」と考えた。当時の小学生がコミットとか言わないと思うので、およそこういう内容のことを考えた、という程度の話なのだが。

 

そういうわけで、やる気に満ち溢れるタイプの公務員の人たちとの付き合いもあるし、ソーシャルな草の根活動的なこともしたことがあるし(いかにもNPO活動という感じでもないが)、官公庁入札もやったことがあるが、本業にはしていない。

 

そろそろコロナ禍の閉塞感も打破されてきたし、ちょっと久しぶりに本業の傍らで何かしてみようかなとは思う。



…前置きが長すぎて、タイトルの「SNSと地方創生の共通点」に入る前に、そこそこいい長さになってきてしまったので、続きはまた次回。

ひとりごと:ファクトからはじめよ

始めよ、だなんて偉そうなこと言えるキャラでもないのだが…。要するに某書籍のタイトルのもじりです。

 

ファクトと推論を切り分けよ、というのは社会人の基本中の基本だと思っているのだが、どうやらそうでもないらしい。先日、荒れた会議を受けて、正解のない中で合意形成をする会議をファシリテートしたのだが、初っ端で全員の荒れた会議でのファクトに対する認識があまりに違いすぎで、ファクトの確認から始める羽目になった(会議で自分が最年少なのだが…)。こういうときは、議事録様様である(まあそのために作っているのだけど)。

 

日本だけなら同一民族集団とはいえ、何らかのチームなり会社組織なり(もしくは家族や恋人など少人数単位の共同体であっても)、価値観や考え方が完全には一致しない2人以上の人間がで合意形成をするとき、ゴールの共有もなければ、現状認識のすり合わせもなく、それを達成するなんて不可能なはずである(まぐれとか、阿吽の呼吸になっている場合もあるが)。

 

もちろん全ての共同体が目的に向かって突き進んでいる訳ではなく、コミュニティ、サークル、家族、恋人あたりは目的意識は薄いかもしれない。しかしそれでも何らかの共通項や共通の世界観(こういう時間を過ごしたいよね)はある。目的意識の薄い共同体であっても、何か決めるとき、何か問題が起きたとき、「自分たちはどうありたいか」を再確認する。

 

心理学者のエドガー・シャインも言っていたし、大学時代の恩師にも新卒の頃の先輩にもくどくど言われたが、兎にも角にも、目の前の事実を記述的に理解するところから始めないと、ゴールとのギャップは測れないし、問題解決もできない。ファクトと推論を切り分けろというと、ドライな感じがするし、コンサルっぽい印象もあるかもしれないが(コンサルをdisってる訳ではないです)、要は今の目の前のことを見よ、ということだ。目の前のコミュニケーションに対する解像度が上がり(アニメのカット数が増える感じ)、インプロビゼーション力が上がってくる感覚は、音楽のライブ感があっておもしろい。

 

もちろん、たとえ事実であってもその認知は、微妙に人によって異なる。事実だけを淡々と記述するように努めたとしてもだ。だったらその努力もせずに議論の土俵にみんなで上がろうものなら、どうなるかには目に見えている。

問い:音楽のアナロジーでビジネス世界を捉えると、どんな世界が見えるか?

私にとってのロールモデルが誰か?と聞かれると(いや、別に誰にも聞かれていないけど…)、自分はビジネスの世界の人間でいようと思っているのに、ビジネスパーソンの顔は思い浮かばない。もちろん学ばせてもらった先輩や、優秀だなあと思う人たちはいるけど、ずばりそうなりたいか?と聞かれると、自分の目指しているイメージとは異なる。

 

自分にとって、自分もこうなりたいと思えて自分を奮い立たせてくれる存在は、実はミュージシャンだ。一部、時々アスリートなんか見て同様の気持ちも抱く(でも残念ながらスポーツには詳しくないので、やっぱりイメージのストライクゾーンはミュージシャン)。

 

私自身は、音楽好きのただのアマチュアだったが、下手の横好きなりに少し音楽の世界に潜ったことで、ビジネスの世界とは違うものの見方、取り組み方が当たり前になった。だからいいとか悪いという話ではないが、自分の根幹をなす部分として書き記しておく。なんせ、青春時代に下手くそなまま終わった音楽の世界でできなかったアウトプットをビジネス(の世界を中心とした社会において)でリベンジしてやる、というのが、社会人としての自分の裏テーマだったりするからだ。

 

まず、他の芸事やスポーツもそうだと思うが、いい見本を見て、変な癖をつけないうちに基礎をしっかり固めることがビジネス以上に重要であると思う。ビジネスの世界でも基礎は大事だが、社会人の基礎力は時代のマナーレベルや、ITツールの進化によっても変わる。その上、最低限の基礎的なスキルと立ち振る舞い・(精神的な)姿勢以上のものは、後々身に着けてもけっこう身につく。ビジネスでは、時代によって、立場によって必要とされるスキルもそのクオリティも変わってくるので、ラーニングとアンラーニングを繰り返すことがより重要になるし、手戻りがきかないような基礎の土台はあまり厚みがないように思う。一方、芸事やスポーツの基礎は守破離の守であり、自分にとって自由がきくレベルの手前くらいまでを指すように思う。これが固まっていないということは、まだ固まっていないコンクリートに立とうとするようなものであり、なまじ固まろうものなら変な癖に足場を固められて、抜け出すのに苦労を強いられる。

 

次に、ジャンルを越境することが当たり前になる。もちろん中には、このジャンルだけやる!という人たちも少なくないが、80年代あたりでジャンル的に飽和状態を迎えて、開拓地らしき開拓地が残っていない音楽の世界において、自分なりの音楽を創造しようとすると、学術の世界でいうところの学際研究の方向へ道を見つけざるを得ない。完コピレベルまでいかずともジャズ、クラシック、ファンク、フュージョン、ラテン、ポップス等々の世界で巨人の肩に乗る。そもそもこれらの分野が完全に切り分け可能なかたちで発展してきた訳ではないので、巨人そのものが混血種だったりする。そしてその上で、必ずしも新しいと表現できるか分からないが、「自分なりの」音楽を創造する。上手い人は、自分なりのテイストと、時代と大衆に合ったテイストの交差点を見つけて、多くの人の心を掴み、商業的にもプレゼンスを発揮している。

 

この感覚を土台におくと、まず産学官の壁が自分の中で取っ払われる。もちろんそれぞれの役割ってものがあると思うし、経済の世界の論理を安易に公共サービスや人情味ある地域社会へ持ち込むつもりはない。ただ、それぞれに学ぼうとか、一旦壁を取っ払った上でどのプレーヤーがどの役割を果たすべきか、果たせるか、という視点は得られるように思う。しかし、職業人として根無し草にはなりたくないので、ライフワーク的に産学官の壁を超えて活動することがあっても、自分は基本的に「産」の分野の人でいようと思っている。次に一職業人としても、自分の分野的な幅を決めない姿勢になる。ただ、これはスペシャリストではなくジェネラリストなんじゃないか、という見方もできる。これについては毎回思うが、スペシャリストとジェネラリストの間には逆説というか矛盾のような、だまし絵のようなものが存在しているように感じる。つまり、スペシャリストを極めようとすると、周辺分野や補完分野への理解も必要になり、ジェネラリストは、ジェネラルとは言えその必須科目を押さえた(あるいは押さえるケイパビリティのある)専門家である必要がある。結局相対的な幅の広さで呼び分けられている気がする。真のジェネラリストは、文系総合職を指すのだろうと思うが、終身雇用の崩壊は文系総合職という職種の存在の危機であるとも換言できるだろう。

 

ちょっと話が横道に逸れてしまったので、専門性という言葉の限界と矛盾についてはまた書くとして、それで結局自分のロールモデルは、根気強く自分の音楽を追い、表現し続けるプロミュージシャンとなった地元の先輩なのである。

ひとりごと:人事は神の見えざる手にあらず

人材エージェントの仕事をしているとき、需要と供給の双方を毎日見ていることによって「この求人、もうちょっと条件をこうしないと人来ないよな」とか、「この人、もう少しこっちの経験が厚ければ選択肢が広がるのに」という、なんというか「物差しで測ったときの足りなさ(あるいは逆に充足度)」を可視化しながら物事を見ていた。そうでないと務まらないし、要するにただの職業病なのだが、なまじ需給の動きとバランスが見えてしまうだけに、自分は自身の中心に「人を評価的に見てはいけない」という倫理観を意識的に据えるようにしていた。

 

これをしないとどうなるかというと、下界の人間を差配する神の気分になってしまうのである。そういう人を見かけることがあったし、構造的にはそうなるのも分からない、というくらいまでは理解できるような(仕事上)同じような立ち位置にいた。本人からすれば、そんなふうには思っていないよ、大げさな、という感じかもしれないが、何様だという言葉を浴びせられた需給のいずれか、あるいは双方の立場の人間の目にはそう映るのだ。潜在的な意識は、言葉や所作に出てしまうものである。人と近いところで接する仕事ほど、本音が顔や言葉に出る。

 

市場を見ているエージェントのみならず、企業内人事でもそういうところがあるだろう。いや、企業内人事はさらに看守の役割も兼ねそろえてしまっているかもしれない。主観が織り交ざっているかもしれない社内の噂や、大小さまざまな過去の履歴、人事への愛想のよさなどを犯罪履歴のように呼び出し、社内の都合で下界の人間の立ち位置を差配する…。まあ、後者の仕事はしたことがないので、憶測にすぎないし、もちろん素晴らしい人事人もいるとは思うが。

 

自分が最初の転職をするとき、周りの人たちのおかげで、人づての紹介案件のみで検討をした。少なくとも客観的には自分の市場価値は高くなかったし、いくつかの案件は案件側も市場価値計測不可能なものもあった(こっそり同期に与信調査くらいはしてもらったが)。自分自身もそうだったが、市場における効率的で効果的なマッチングを行うために、需給バランスを見て、その物差しで測る。これはこれで市場という仕組みにおいてある程度お互い必要だ。でもその物差しでは計測不可能な例外だってある。需要供給ともに、市場での取り扱い数が少ないものは外れ値となるケースが少なくない。あくまで、エージェントの使う物差し的視点は、メインストリームのケースから導き出される法則性に基づいている。婚活市場に話を置き換えれば、なおさらだ。

 

人を評価的に見てしまう人は、その椅子にどっぷりと腰かけてしまって、評価の目にさらされる経験が少ないのかもしれない。冒険心などなく、自分にとって難しくない仕事をしているうちは、そして差配する側にいるうちは、評価が低くなる心配などとは無縁なのだろう。

 

とりあえず、自分神かも、と思っていた人はまず人間になってほしい。いや、意識の奥底で「ちょっと神かも」と思っていたことにまず気づいてほしい。

仮説:イデオロギーアレルギーのある人は多いのではないか(3)

いや、まだ続くんかい、という感じですよね(笑)言い残したことがあると後で気になってしまうだろうということで延長戦です。テレビで発言したり、インタビューを記事に書き起こされたりすると、変なところだけ切り取られて炎上する、という現象がありますが、ここは自分のブログなので補足し放題。自分の発言は点ではなく線に、そして記述が増えるほどに立体になっていくように思います。立体に見えるまで読む物好きがいるかどうかは別ですが…

 

延長戦その1。

資本主義という言葉を使った論争のようなものを巷で見ていると、資本主義という言葉が、市場経済貨幣経済の意味で使われているのでは?というケースが散見される。つまり資本主義についてのちょっとでもネガティブな発言に対して、実質的には「俺らの市場経済を悪く言うなよ?」と言っているような感じのやつだ。個人的には(この3つで本当にMECEか?ということはさておき)、この3つの関係は以下であるように思う。

 

 貨幣経済市場経済⊂資本主義経

 

※集合の記号は自分自身忘れていたのでちょっとググった。(「A⊂B」の場合、「AはBに含まれる」の意味。ベン図を貼るなどの高度なブログ編集技術がないのでご容赦ください…)

 

貨幣経済は、モノの価値を貨幣という共通のものさしで測りましょう、というやつ。貨幣の登場によってモノの価値が単に数値化されましたというだけではなく、「価値を数量的に満たしていればなんでも買える(100円の価値のものであれば100円払えば買える)」というジョーカー的存在を生み出したのが貨幣経済のひとつの特徴だろう。これが例えトークンのような別の呼び名の、世の中の貨幣と異なる価値相場のものとして再登場したとしても、この性質をもったジョーカーは便利すぎて今更人類が使用を止めることはほぼないだろう。

 

市場経済は、そのモノの値付けを個人同士の話し合いやネゴ、どちらかの言い値に対するパワーバランスの結果などで完全個別に決めるのではなく、(最終的に個別に決める要素があったとしても)原則価格の相場観は市場によって決められる、つまり需要と供給のバランスによって決められる世界と表現できるだろう。交通の発達や情報伝達手段の発達とともに定着した原理だろうと思うが、交通や情報手段が発達した現代社会において今更市場経済の原理がなくなるとも思えない。(一時的に、あるいはSF的にもし交通も情報も分断される世界がやってきたとしても、一定以上の余裕が生まれれば、その小さいコミュニティの中での市場経済カニズムはまた復活すると思う)

 

つまり、「俺たちの資本主義経済を守らなきゃ!」系発言のいくつかには、今更揺るがないであろう貨幣経済市場経済の擁護の意味になっているものがあるように思うのだ。

 

「安心してください、なくなりませんよ」と言ってあげたくなる。

仮説: イデオロギーアレルギーのある人は多いのではないか(2)

資本主義は今更止められるものでもないし、たぶんこれからもこの世界の経済システムの根幹であり続けるだろう(だんだん変形していって呼び名が変わらない限りは。もしくはSFみたいな荒廃した世界がやってきて、経済活動の根幹が揺るがない限りは)。

 

ただ、独禁法で市場の独占に制限があるように、GAFA(最近は括りや頭文字が変わってきたが)に対してEUをはじめ、いくつかの国や地域が規制を敷いているように、幾度となく繰り返されてきた事件やバブル崩壊金融危機などを踏まえて金融関連の法律が強化されているように、今日現在の資本主義だって野放しにはされてきた訳ではない。

 

最近世の中に錦の御旗のごとく受け入れられているSDGsも、(米中に勝ち目がないことを痛感した欧州の策でもある点はさておき)資本主義と上手く付き合っていくための試みのひとつだと言えるだろう。

 

私は帰国子女でもなければ、留学経験もないし、最近ようやく仕事で英語を使う機会こそ増えてきたが、いかにもなグローバルビジネスパーソンでもないので、日本をけなすわけではないことを前提にして話すのだが、これだけたくさんの国と地域において資本主義の限界を実感をもって痛感し始めた一方で、日本ではその切迫感はまだまだ低いようにも思われる。資本主義との付き合い方を上手く考えなきゃというときに、それは痛切な生活者の叫びやこれからの世代の不安感として捉えられず、「何社会主義みたいなこと言ってるの?」という批判をたびたび耳にするからだ。

 

ちなみにこれまた「イデオロギーってなんだっけ?」ということを改めて考えてみると、「こうすれば世の中みんなハッピーになるんじゃない?上手くいくんじゃない?」という考え方や仮説ようなものであるように思う。仮説は信念である。例えば、私が以前働いていた企業では、顧客からの口コミで拡大することを狙い、ホスピタリティ高く対応することに重点を置いていた。つまり「ホスピタリティドリブン」で事業を成長させてきた。基本がその行動様式なので、社内の協力体制も気配りと連携に重きを置いた農耕民族方式だった。一方、同業他社は営業職と内勤職を雇用形態ごとすっぱり分けており、営業には売上目標を厳しく課す「営業数字ドリブン」スタイル、狩猟民族方式だった。いずれも「こうすれば上手くいくのでは?」の仮説に基づいて、あとはひたすら現場の人間がそれを信じて実行している。

 

話を戻すと、「こうしたらみんなハッピーになるはず」と考えた人たちは当初真剣だったし、とても心優しくたくさんの人の幸せを考えたんだと思う。

 

ビジネスなら小さくでもトライアンドエラーができる。しかし好き勝手に国単位で壮大な社会実験を行うわけにはいかない。やるにしても、どちらかに決めないと実験にならない。イデオロギーの時代は、お互いが「こうしたほうが上手くいくと思う!」という考えをぶつけあった時代であったし、思考実験レベルしかできないからこそ、対立構図が強まったように思う。

 

しかし、一部の国で行われた壮大な社会主義の実験結果は明らかになった。そして今の時代の資本主義も、実験途中というよりは結果を呈するところまで来ているように思う。経済成長には限りがあるし、資源にも限りがあるし、富の格差は拡大した。しかしそれでも他に取って代われるものはないし、前提としている右肩上がりの成長はやめられない。

 

自分の信念の原点が宙に浮いたイデオロギー的なものに依拠している訳ではなく、こういったとは別にちゃんと経験に根差した思考の経緯があるのはたしかだ。だが抽象度を上げたり、歴史を参照しながらあれこれ考えている自分がいるのも事実であり、抽象度の高い話をしたときに、資本主義という言葉を出したり、その欠点や限界に言及したりした途端「社会主義者だ!」なんて言われていては、白でも黒でもないグレーの領域において、本当に具体的な策を考えていくことは難しい。

仮説:イデオロギーアレルギーのある人は多いのではないか(1)

(初回は敬体で文章を書いていたにも関わらず我ながら一貫性がないが、しっくりくるほうで書き進めようと思う。)

 

例えば「あなたは原発に賛成ですか?反対ですか?」という質問やディベートがあるとする。問いかけ自体はよくあるやつだ。しかし様々なリスクを考慮し、様々な利害関係者の対立を考慮し、コストの問題をクリアして現実社会で何か実装しようとすると、この極端な二択というわけにはいかないケースが多い。この問いも、冒頭では賛成か反対かのどちらかを答えるにしても、回答者が深く考えれば考えるほど、総論賛成各論反対、またはその逆のように、回答は白でも黒でもなくどんどんグレーになっていく。

 

冷戦時代の資本主義VS社会主義の対立構図にも、この「白か黒か?」という二元論的な発想があった。結果的に社会主義は上手くいかないということが歴史上証明されたので、白黒はっきりしたとも言えよう。しかし、社会主義亡き後の資本主義は少々暴走しすぎた感じもする。

 

一応断っておくが、私は資本主義を否定していないし、ましてや社会主義を迎合しているわけでは尚更ない。しかし、金融経済が実体経済の数十倍に膨れ上がり、世界の上位1%の富裕層が世界の富の40%を占めるようにまで格差が広がり、世界的な金融危機まで起こってしまったこの世界で、いいぞどんどんやれ資本主義とまでは言いづらい。

 

と、ここで「そもそも資本主義って何だっけ?」と思い始めている自分がいることに気づいた。みんな(←大体世の中一般の人という意味の範疇で)なんとなく資本主義という言葉を使っているような気がするのは私だけだろうか。それは計画経済の反対語だとなんとなく思っている節があり、今更そんな世界は実現困難だし求めたいとも思わない、ということでなんとなくぼんやりと、資本主義を正義と捉えているのではなかろうか。みんなあの頃のイデオロギー対立にアレルギーがあって、資本主義の不完全なところに言及しづらくなっている人が多いように思う。

 

話が長くなりそうなので、今日のところは「そもそも資本主義って何だっけ?」の部分だけで話を終わることにする。そういえばみんな何となくで資本主義というものを指さしていないだろうか。その元々の定義はマルクスあたりが言っているのかもしれないが、実態としてどのような本質を指しているか、のほうが重要だと思うので、自分なりに3点に集約してみた。素人が適当に言っているだけなので、定義警察の方には見逃して頂けると嬉しい。

 

1,資本(まとまった金額のお金)を実体経済に投じて、労働者に事業を回させて成長させることでさらなる資本を増やせる。また資本を金融経済に投じて、お金でお金を増やすことができる。

2、1の前提として経済世界に右肩上がりの成長シナリオを求める

3,2の成長の開拓地を増やすために、それまで経済的取引をされていなかったものも、市場での取引きの対象とされていく

そして忘れられがちだが4番目として、資本主義を運営していくための金融システムを司り、ルールメーカー、トラブルの際の審判たる国家の存在があるように思う。

 

本当にこれだけか?というほど思考を精査できていないのですが、思いついたらまたそのときに再整理することにして、今日のところはおやすみなさい。