ちび龍の修練場

文系総合職のふつーのビジネスパーソンが、食いっぱぐれないキャリア構築と、社会変革の両立を考えていく思考のラボ。

仮説:褒められ慣れるのもだいじかもしれない

少し前の話になるが、 某市長のSNSでの言動が暴走し始めているというか、調子に乗り始めているというか、政策を全国から褒められすぎて舞い上がって、自分の市政の範囲外、自分が掴んでいる事実の範囲外のことに対してまで、さも正義の味方であるような発言をされており、あぶなっかしくてたまらないと感じていた。

 

政策など、やっていることは概ね素晴らしいことだと思う。今の日本で、特に国に対する国民の不満をスカっとさせてくれるような未来志向の政策だ。

 

ただ、そこに事実があるわけでもないのに、まして市政に関係ないのに(ご自分が事実を掴んだ、あるいは被害を受けた訳でもない)、憶測で「きっとあいつは悪の大王だ」みたいなことを言い出してしまうのは、どうかと思う。個人ではなく会社を批判しているあたり、その事業に携わっている、あるいは携わった人間からすると風評被害でしかない。これまでマスコミに煽られてきた巷の感情に乗っかって、こいつを叩けばいいねがたくさんもらえる、という発想も容易に想像がついてしまった。

 

自分がいつか、大なり小なり、すごいねと人に言ってもらえる活躍をできるようになった日のために、小さな誉め言葉に慣れて舞い上がらない練習も必要なのかもしれない。愚直に自分の立場で、自分のやるべきことをちゃんとやろう。

 

案の定、某市長は周囲から注意されたのか、本業のtweetに限るようにし始めたようだ。

仮説:いつの時代も常識を破壊する産業は、そこで働く人間のビジネスの常識も破壊する?

悲しいけれど、なんだか若いのに老害が誕生していく瞬間を見てしまったので、老害誕生のパターン分析的なことをしてみようと思う。

 

もちろん、旧態依然とした大企業で長く過ごすうちに、そこにしがみつくしかなくなり、しょーもないマウントで自分の存在意義のマーキングをし始めるタイプの老害おじさんも一定数いるのだが(大企業のピラミッドが、20代後半から30代を飼い殺す構造であることについてはいつか別途触れるとして)、これとは逆に「新しい領域で成功を収めて輝ける若者だったのに、その経験がかえって老害を促進してしまった」というケースもあり得ると感じた。

 

いつの時代も、ゲームのルールが不明瞭な、混沌とした新しい市場が生まれる。そこで勝ち上がっていくためには、ゲームのルールが不明瞭、またはコロコロ変わるがゆえに、常に勝ちパターンを探り続ける必要があり、むしろとにかくがむしゃらにやったもん勝ちの世界となっている。そしていつの日か成熟するのだが、市場としては成熟あるいは安定したほどほどの成長基調にあったとしても、会社としては先進国と中進国のように分化する。

 

「中進国の罠」という言葉があり、内閣府によると「発展パターンや戦略を転換できず、成長率が低下、あるいは長期に渡って低迷することを指す」と定義されている。

 

一方、人間の行動パターンとしてよく見られるなと私が日頃感じているのが、名付けて「慣性の法則」なのだが、これは物理法則としての慣性の法則以外にも、「生活レベルを下げられない」、「バブルの頃が忘れられずに今の時代を物足りなく思う」、その他依存性全般などの人間の心理や行動の継続性を指している。「電車は急に止まれない」と、「今までの習慣は急には止められない」は同じような現象であると感じる。

 

成長の末に先進国的大企業になれば、社会的責任が増し、大きな企業として組織だった仕事の仕方ができるようになり、周囲の同規模の会社と付き合える程度には常識的なふるまいができるようになると思うのだが(逆に大企業病にかかるよね、という話は一旦さておき)、中進国的企業になってしまった場合には、過去の成功体験が忘れられず、なんでもがむしゃらを良しとし、それゆえに組織だった組織になれず、それゆえに尚更中進国止まり、、といったループにハマる。そして本人は食うに困らない経済圏と楽しい仲間がいるので「俺って最強!」と思っている。先進的(だった)市場に限らず地方豪族もこんなものなのかもしれないし、本人は大変ハッピーなのかもしれないが、このタイプと付き合うときには「成りあがった中進国リーダー」かもしれない、とアンテナを張っておくことは有効だと思われ、また昭和でなくとも新種の根性論が生まれ続ける源泉を見たことを報告しておく。

仮説:ビジネスとソーシャルとガバメントの関係(2)

所謂 C to Cビジネスは、当初は市民活動的な、「余ってるんだから分け合えばいいじゃん」というシェアの概念に基づいていたのだと思うが、エアビーにおいては部屋を借りて、掃除する人を雇ってホテルオーナー業を始める人が出てきたし、ウーバーは会社の時価総額が上がる一方で、その事業の中身を支える人たちはギグワーカーという名の低賃金労働者となってしまった。私はこの事業構造を思い出す度、一見自動化されているように見える設備を、裏で奴隷複数人が汗をかいて動かしている古代ローマの情景が目に浮かぶ。エアビーの社員は、想像に難くないが、自分たちのことを相互扶助的なコミュニティのオーナーとも思っていなければ、ホテル事業者とも思っていない(内部に詳しい人から聞く限りそうらしい)。オフィスでPCに向かいながら名をはせていく、クールなIT企業だと思っている(IT企業という言い方も先進さが足りないかもしれない)。

 

ビットコインも、中央集権的な金融システムからの脱却みたいなことを当初謳っていたが、謳っていた人たちに欲が出てきたのか、金銭的な欲の強い人たちに乗っ取られたのか、結局ただの金融商品、ただの一時的なバブルとして、その初期的なブームを終えた印象がある。

 

ソーシャルとビジネスは一見そうは見えないかもしれないが、混ぜるのが難しい。最近では社会的意義やSDGsを意識しているかなどが問われるので、距離が近くなったようにも思える二者だが、ビジネスがビジネスとしての一定以上の収益性を保ったまま、社会善を兼ね備えるのはまだ成立しやすいとしても、その逆は難しい。ちょっとだけビジネスの論理で資金を調達し、ちょっとだけ収益を上げようとしても、新しい金儲けのネタができたと喜んで寄ってくる投資家や、これに便乗して元の社会的意義を壊してまで、これで儲けようとする人たちが出てくる。せっかく清らかな心をもって事業を始めても、一筋縄ではいかない。

 

まずは前回の最後に書いたように、昨今融合しがちな三者が、本来的には(どれか1つポジションを取るなら)どれだっけ?ということに想いを馳せたい。そこからブレずに、他の二者との協力、二者の要素の取り込みができるプレーヤーになりたいものだ。

仮説:ビジネスとソーシャルとガバメントの関係(1)

 最近では社会課題意識の高い若者が増えているとか、社会起業が増えているとか、戦後のように政府が護送船団方式での産業政策をできなくなったから民間からのリクエストに基づいた産業政策に変化してきているとか、ビジネスを考えるときには社会課題から発想せよなど、、、、NPOの活動が地元行政と深く連携するものになり、民間の行政受託案件も外郭団体の癒着的なものよりもプロフェッショナルなビジネスレベルのものの割合が増えてきている印象がある。

 

つまり、民間企業(ビジネス)と、市民(ソーシャル)と、行政(ガバメント)の距離感がかなり近くなり、昔よりもフラットで相互協力的で、人材の行き来も増えている、という変化が生じているように感じる。

 

民間は、より社会的な善や社会解決課題を意識するようになり、製品やサービスにおける新規開発だけでは社会浸透まで進まない(真のイノベーションは生み出せない)という実感から、社会実装のためのルール作り・ルール変更、実証実験において行政とのチームプレーの必要性を痛感している。

 

市民(NPO社会起業家を含む)は、社会にとって良いことをし、その活動を持続可能なものにしていくためには、大なり小なりビジネスの世界に倣って事業化をする必要があると痛感している。また、活動にお墨付きをもらうため、あるいは助成金補助金という資金を得るために、行政との関係づくりが必要だと痛感している。

 

行政は、経済政策を打ち出し、沈みゆく日本の経済をなんとかすることで、税収も維持・増加させたい。少子高齢化が余計に経済の沈没を加速させている、という危機感があるので尚更だ。地方に至っては人口減少が深刻なケースもあり、移住政策に関心を寄せる自治体も多いが、そのためにも雇用の創出は過大となる。しかし、民間ですら国際的な経済競争に四苦八苦しているわけで、多くがビジネス素人の行政にはどうしたらいいか分からない。むしろ、行政にどうしてほしいのか、民間の人から教えてほしい。経済の低迷に加えて広がる格差は、行政にとってサポートが必要な層の増加を意味し、経済的の低迷や東京一極集中は、多くの自治体にとって必要性の増す行政のサポートに対する財源の不足を意味する。市民活動の活性化は行政にとっても有難いものであり、心強いパートナーとなり得る。

 

こうして、それぞれの活動が連携を取り、相乗効果を生み出すのはいいことである。たしかにいいことなのだが、一点、注視すべきと思っていることがある。見た目が融合してしまった結果として、操縦席側の人間が、その活動の本質がこれら3つのうち、どれであったかを見失いやすくなっているということだ。(→続く)

熟考:歴史は急には動かないし、社会は我々の手を離れて動き出す

小学生の頃の担任の先生が大の歴史好きだったため、自分自身もかなり影響を受けたのだが、そのときその先生に言われて心に刻まれた言葉がいくつかある。教わったのが小学生の頃だけに、社会に出たらみんな当たり前に認識しているものだと当時は自分の認識の甘さを恥じたが、社会に出たら意外とそうでもなかった。そうでもある人もいると思うし、自分の周りの大多数がそうであるだけなのかもしれないが。

 

その言葉のひとつが「歴史は急には動かない」だった。

 

当時、「その時歴史が動いた」という番組がNHKで放送されていた。歴史上のエポックメイキングな出来事を切り取って扱うためのセンセーショナルなタイトルとしてつけられたのだと思うし、実際、歴史上大きな転換点になった出来事というのは、実際それらであったとは思う。

 

ただ、社会や人々の価値観、生活は急に変わるものではないし、大きな転換点になった出来事の前にはコップに水が溜まっていく長い時間があった場合もあり、コップから水が溢れたあとに、その水の浸透に幾年もかかっている場合もある、とのことだった。

 

人類の歴史において、比較的変化のスピードが速い時代に生きている自覚はあるが、それでも「社会や人々の価値観、生活は急に変わるものではない」ということは痛感する。

 

例えば、コロナ禍によってテレワークが急速に日本で進んだのは、かなりエポックメイキングだったと感じる。転換点であることには変わりないが、それでもこの背景には電話のみならず、メール、そしてインターネット環境が発達し、定着してきたことが大きく寄与しているし、進んだかと思いきや、ちょっと感染者数が減ったとたんに出社を命じる会社や、そもそもテレワークさせてくれなかった会社もある。逆に毎日テレワークというのも困りもので、我々人類がテレパシーで交流を深められ、毎日座りっぱなしでも健康に支障がないというわけではないなので、いくら会社の方針がテレワークであっても、人間の感情と身体がすぐには順応しきれない。

 

テレワークはコロナ禍によるアクシデントの要素もあるが、例えば他の例としてインターネットやスマートフォン上のサービスやアプリケーション。直近5~10年は雨後の筍のようにIT企業(という名のサービス企業。あ、失敬。)が生まれ、「起業なんて低資本で始められる!」「古いものはどんどんディスラプトしよう!」という空気感があったように思うが、インターネットの歴史を振り返ると(それでも人類の歴史の中では超速の変化だが)、インターネットという通信インフラが整い、そこで共有される情報への抵抗感が薄れるまでに数十年かかっている。インフラが整い、コンテンツが流通し、利用者のモラルとリテラシーが定着したことで、アプリケーションの世界が加速するタイミングが来たのだと思う。C to Cサービスだって、SNSに人々が慣れたという文化的な基盤の上に成り立っているように思う。オークションサイトはそれまでにもあったが、C to Cとこういったサービスが異なるのは、レーティングシステムによる信頼性の担保が革命的だったという意見もあるものの、そういったドライな要素以上に、SNS慣れした人口がそのまま潜在的な市場として登場したことが大きく寄与しているように思う。

 

つい話が長くなって、タイトルの後半部分に辿り着かなったので(なんなら前半部分も話し足りない)、続きはまた今度にしたい。

仮説:ソーシャルとビジネスのまぜるな危険の法則

最近はSNSにしろ、CtoCにしろ、なんならブロックチェーンにしろ、国家や経済の世界とは本来的な起源が異なるところにあったであろう活動やムーブメントが、ビジネスとして徐々に姿かたちを変えるケースが増えているように思う。仮に、この「儲けよう」という活動ではなく「(国でも地域でも)自分たちの住んでいる世界を 良くしよう・楽しくしよう(もしくはそのように維持しよう)」という活動を「ソーシャル」と呼ぶとする。もちろん後者を目指して、それに対価を払う価値ありとみなす人がいれば、前者も同時に実現できるケースもあるわけだが。

 

これらのプリミティブなかたちは、ご近所づきあいとか、地元のイベントとか、地元の村おこしとか、地元でのちょっと地域を良くする活動とか、ご近所同士の物々交換とか、国家権力に対抗するムーブメントとか、もしかしたらもう少しお手柔らかに地域通貨のようなものとか、、、、そのようなものだったようにも想像できる。

 

この動きの背景は、現代社会人は物質的にある程度満たされたので、それだけ人との関わりや社会へのアクションに人々が楽しさや情熱を感じるようになったからだと言えるかもしれないし、IT技術やインターネット上でのコミュニケーションが発達してきたので、上記のようなプリミティブな活動がIT技術やインターネット上のコミュニティを前提としたものに発展してきたからだとも言えるかもしれない。

 

地域のローカルな活動であれば、その持続性や人々の関係性のハブの役割を務めたのは、地元の青年会、婦人会、自治会、お祭り実行委員会、ちょっとおせっかいなおばちゃん、順番で回ってくる役回りへの義務感…このようなものだったかもしれないが、インターネット上の世界ではプラットフォームが収益性を備えることで経済的に持続可能なものとして発展し始めたのだと思う。

 

しかし、もうこれは避けられないフェーズなのかもしれないが、ソーシャルとビジネスは元々同じ論理で動くものではなく、むしろ時として相性が悪い。民主化を目指そうとしても、傀儡政権のトップが植民地支配を行う国家の甘い汁に誘われてしまうがごとく、最初は心温まるような優しく強い想いで始まった活動が、どんどんビジネスの論理に絡めとられて、ただの投資家と、時流に乗って一瞬だけ美味しいところをかすめ取ろうとする事業家(時に詐欺師も)にとっての新しい金儲けのおもちゃになっているように見えるときもある。

 

冒頭で「もちろん後者を目指して、それに対価を払う価値ありとみなす人がいれば、前者も同時に実現できるケースもあるわけだが。」と書いたが、当初の目的が後者(ソーシャル)のほうが中心だったのであれば、慎重に前者と混ぜていく必要があるだろう。安易に「まぜると危険」なのだと思う。

 

考えつくしたバランスで(つまり過度な経済的成功を狙いに行かない)、目的と倫理観を貫いて活動を進めるのが理想であるように私には思えるが、1人だけが闇米を食べない強い意志を持っても意味がないのであれば、一度ブームがしぼんでいくフェーズを経験するのも避けられないことなのかもしれない。もしくは、場合によっては敢えて利益の創出を目指さないと割り切って、従来のNPO活動的なものとして継続していくというのも選択のひとつなのかもしれない(一度事業化して、またNPOに戻した事例を聞いたことがある)。

 

混ぜてはいけない、ということではなく、本来異なる論理で動いている活動同士だからこそ、混ぜることのリスクを認識しながら、信念を中心に据えて新しいハイブリッドを模索していく時代なのかなと思っている。

仮説:SNSと地方創生の共通点(2)

 まあ共通点と言ってもひとつではないと思うので、これらの相性の良さみたいな話も含めれば、話はどんどん広がっていくだろう。

 

まず、地方創生と適当なワードを使ってしまったが、ここでの意味は、「地方経済の活性化、ないしは人口増加、ないしは経済性の向上に関わらず地域におけるQOLが向上する人々が増えること」としておく。2つ目は、地方における雇用とセットのはずだが、その居住地域外の企業で働いているケースもあるかもしれない(少なくとも住民税は払う訳だが)。3つ目は、そういう人が1人だけでなく、2人、3人…と増えることで実際には地域コミュニティの活性化のようなものを意味することになるだろう。

 

いくつかあると思われる共通点の中で、自分が一番意識しているのは、「ユーザーの積極的参加・関与により、コミュニティやサービスが形成される」という点だ。そういう意味では、SNSだけでなく、C to Cビジネスなんかも含まれると思う。最近では、B to Cでも、B to Bでも「顧客に寄り沿う」とか「顧客と一緒に課題を解決していく」という思想でカスタマージャーニーや製品が設計される風潮が強くなってきてはいるが、ユーザーがコミュニティをつくって、それを腐らないようにしていくだけの継続的な、そしてめんどくさい関与(もちろん最初は楽しくて始めるケースが多い訳だが)をする、という性質とは異なる。

 

組織や共同体のメカニズムを観察・考察するのが大好きな私みたいな人間にとっては、SNSをはじめとしたユーザー参加型のインターネットコミュニティも、地方創生も、ウォッチし、(消耗しない程度に)参加することは興味深い。もちろん、しっかりそのコミュニティを楽しむときは、その分運営に貢献するようにしている。(私の人生における大きな研究テーマのひとつは、「いかにコモンズの悲劇をなくすか」だ。完全にはなくせないが、可能な限りなくすにはどうしたらいいか、と考えている)。

 

そういう意味においては、DAOやメタバースなど、技術的にどんどんバーチャルなコミュニティ・組織の自治が可能になる中で、最初はルールもない状態から、徐々にマナーやルール、様々なTipsが発見されていく様子はおもしろいし(自分で発見すること含め!)、これが地方のコミュニティやビジネスに活かされる、あるいはその逆もあるだろう。

 

最近はまたコミュニティ運営に関わることになり、手触り感を感じている。