ちび龍の修練場

文系総合職のふつーのビジネスパーソンが、食いっぱぐれないキャリア構築と、社会変革の両立を考えていく思考のラボ。

仮説:ソーシャルとビジネスのまぜるな危険の法則

最近はSNSにしろ、CtoCにしろ、なんならブロックチェーンにしろ、国家や経済の世界とは本来的な起源が異なるところにあったであろう活動やムーブメントが、ビジネスとして徐々に姿かたちを変えるケースが増えているように思う。仮に、この「儲けよう」という活動ではなく「(国でも地域でも)自分たちの住んでいる世界を 良くしよう・楽しくしよう(もしくはそのように維持しよう)」という活動を「ソーシャル」と呼ぶとする。もちろん後者を目指して、それに対価を払う価値ありとみなす人がいれば、前者も同時に実現できるケースもあるわけだが。

 

これらのプリミティブなかたちは、ご近所づきあいとか、地元のイベントとか、地元の村おこしとか、地元でのちょっと地域を良くする活動とか、ご近所同士の物々交換とか、国家権力に対抗するムーブメントとか、もしかしたらもう少しお手柔らかに地域通貨のようなものとか、、、、そのようなものだったようにも想像できる。

 

この動きの背景は、現代社会人は物質的にある程度満たされたので、それだけ人との関わりや社会へのアクションに人々が楽しさや情熱を感じるようになったからだと言えるかもしれないし、IT技術やインターネット上でのコミュニケーションが発達してきたので、上記のようなプリミティブな活動がIT技術やインターネット上のコミュニティを前提としたものに発展してきたからだとも言えるかもしれない。

 

地域のローカルな活動であれば、その持続性や人々の関係性のハブの役割を務めたのは、地元の青年会、婦人会、自治会、お祭り実行委員会、ちょっとおせっかいなおばちゃん、順番で回ってくる役回りへの義務感…このようなものだったかもしれないが、インターネット上の世界ではプラットフォームが収益性を備えることで経済的に持続可能なものとして発展し始めたのだと思う。

 

しかし、もうこれは避けられないフェーズなのかもしれないが、ソーシャルとビジネスは元々同じ論理で動くものではなく、むしろ時として相性が悪い。民主化を目指そうとしても、傀儡政権のトップが植民地支配を行う国家の甘い汁に誘われてしまうがごとく、最初は心温まるような優しく強い想いで始まった活動が、どんどんビジネスの論理に絡めとられて、ただの投資家と、時流に乗って一瞬だけ美味しいところをかすめ取ろうとする事業家(時に詐欺師も)にとっての新しい金儲けのおもちゃになっているように見えるときもある。

 

冒頭で「もちろん後者を目指して、それに対価を払う価値ありとみなす人がいれば、前者も同時に実現できるケースもあるわけだが。」と書いたが、当初の目的が後者(ソーシャル)のほうが中心だったのであれば、慎重に前者と混ぜていく必要があるだろう。安易に「まぜると危険」なのだと思う。

 

考えつくしたバランスで(つまり過度な経済的成功を狙いに行かない)、目的と倫理観を貫いて活動を進めるのが理想であるように私には思えるが、1人だけが闇米を食べない強い意志を持っても意味がないのであれば、一度ブームがしぼんでいくフェーズを経験するのも避けられないことなのかもしれない。もしくは、場合によっては敢えて利益の創出を目指さないと割り切って、従来のNPO活動的なものとして継続していくというのも選択のひとつなのかもしれない(一度事業化して、またNPOに戻した事例を聞いたことがある)。

 

混ぜてはいけない、ということではなく、本来異なる論理で動いている活動同士だからこそ、混ぜることのリスクを認識しながら、信念を中心に据えて新しいハイブリッドを模索していく時代なのかなと思っている。