ちび龍の修練場

文系総合職のふつーのビジネスパーソンが、食いっぱぐれないキャリア構築と、社会変革の両立を考えていく思考のラボ。

仮説: イデオロギーアレルギーのある人は多いのではないか(2)

資本主義は今更止められるものでもないし、たぶんこれからもこの世界の経済システムの根幹であり続けるだろう(だんだん変形していって呼び名が変わらない限りは。もしくはSFみたいな荒廃した世界がやってきて、経済活動の根幹が揺るがない限りは)。

 

ただ、独禁法で市場の独占に制限があるように、GAFA(最近は括りや頭文字が変わってきたが)に対してEUをはじめ、いくつかの国や地域が規制を敷いているように、幾度となく繰り返されてきた事件やバブル崩壊金融危機などを踏まえて金融関連の法律が強化されているように、今日現在の資本主義だって野放しにはされてきた訳ではない。

 

最近世の中に錦の御旗のごとく受け入れられているSDGsも、(米中に勝ち目がないことを痛感した欧州の策でもある点はさておき)資本主義と上手く付き合っていくための試みのひとつだと言えるだろう。

 

私は帰国子女でもなければ、留学経験もないし、最近ようやく仕事で英語を使う機会こそ増えてきたが、いかにもなグローバルビジネスパーソンでもないので、日本をけなすわけではないことを前提にして話すのだが、これだけたくさんの国と地域において資本主義の限界を実感をもって痛感し始めた一方で、日本ではその切迫感はまだまだ低いようにも思われる。資本主義との付き合い方を上手く考えなきゃというときに、それは痛切な生活者の叫びやこれからの世代の不安感として捉えられず、「何社会主義みたいなこと言ってるの?」という批判をたびたび耳にするからだ。

 

ちなみにこれまた「イデオロギーってなんだっけ?」ということを改めて考えてみると、「こうすれば世の中みんなハッピーになるんじゃない?上手くいくんじゃない?」という考え方や仮説ようなものであるように思う。仮説は信念である。例えば、私が以前働いていた企業では、顧客からの口コミで拡大することを狙い、ホスピタリティ高く対応することに重点を置いていた。つまり「ホスピタリティドリブン」で事業を成長させてきた。基本がその行動様式なので、社内の協力体制も気配りと連携に重きを置いた農耕民族方式だった。一方、同業他社は営業職と内勤職を雇用形態ごとすっぱり分けており、営業には売上目標を厳しく課す「営業数字ドリブン」スタイル、狩猟民族方式だった。いずれも「こうすれば上手くいくのでは?」の仮説に基づいて、あとはひたすら現場の人間がそれを信じて実行している。

 

話を戻すと、「こうしたらみんなハッピーになるはず」と考えた人たちは当初真剣だったし、とても心優しくたくさんの人の幸せを考えたんだと思う。

 

ビジネスなら小さくでもトライアンドエラーができる。しかし好き勝手に国単位で壮大な社会実験を行うわけにはいかない。やるにしても、どちらかに決めないと実験にならない。イデオロギーの時代は、お互いが「こうしたほうが上手くいくと思う!」という考えをぶつけあった時代であったし、思考実験レベルしかできないからこそ、対立構図が強まったように思う。

 

しかし、一部の国で行われた壮大な社会主義の実験結果は明らかになった。そして今の時代の資本主義も、実験途中というよりは結果を呈するところまで来ているように思う。経済成長には限りがあるし、資源にも限りがあるし、富の格差は拡大した。しかしそれでも他に取って代われるものはないし、前提としている右肩上がりの成長はやめられない。

 

自分の信念の原点が宙に浮いたイデオロギー的なものに依拠している訳ではなく、こういったとは別にちゃんと経験に根差した思考の経緯があるのはたしかだ。だが抽象度を上げたり、歴史を参照しながらあれこれ考えている自分がいるのも事実であり、抽象度の高い話をしたときに、資本主義という言葉を出したり、その欠点や限界に言及したりした途端「社会主義者だ!」なんて言われていては、白でも黒でもないグレーの領域において、本当に具体的な策を考えていくことは難しい。