ちび龍の修練場

文系総合職のふつーのビジネスパーソンが、食いっぱぐれないキャリア構築と、社会変革の両立を考えていく思考のラボ。

ひとりごと:ファクトからはじめよ

始めよ、だなんて偉そうなこと言えるキャラでもないのだが…。要するに某書籍のタイトルのもじりです。

 

ファクトと推論を切り分けよ、というのは社会人の基本中の基本だと思っているのだが、どうやらそうでもないらしい。先日、荒れた会議を受けて、正解のない中で合意形成をする会議をファシリテートしたのだが、初っ端で全員の荒れた会議でのファクトに対する認識があまりに違いすぎで、ファクトの確認から始める羽目になった(会議で自分が最年少なのだが…)。こういうときは、議事録様様である(まあそのために作っているのだけど)。

 

日本だけなら同一民族集団とはいえ、何らかのチームなり会社組織なり(もしくは家族や恋人など少人数単位の共同体であっても)、価値観や考え方が完全には一致しない2人以上の人間がで合意形成をするとき、ゴールの共有もなければ、現状認識のすり合わせもなく、それを達成するなんて不可能なはずである(まぐれとか、阿吽の呼吸になっている場合もあるが)。

 

もちろん全ての共同体が目的に向かって突き進んでいる訳ではなく、コミュニティ、サークル、家族、恋人あたりは目的意識は薄いかもしれない。しかしそれでも何らかの共通項や共通の世界観(こういう時間を過ごしたいよね)はある。目的意識の薄い共同体であっても、何か決めるとき、何か問題が起きたとき、「自分たちはどうありたいか」を再確認する。

 

心理学者のエドガー・シャインも言っていたし、大学時代の恩師にも新卒の頃の先輩にもくどくど言われたが、兎にも角にも、目の前の事実を記述的に理解するところから始めないと、ゴールとのギャップは測れないし、問題解決もできない。ファクトと推論を切り分けろというと、ドライな感じがするし、コンサルっぽい印象もあるかもしれないが(コンサルをdisってる訳ではないです)、要は今の目の前のことを見よ、ということだ。目の前のコミュニケーションに対する解像度が上がり(アニメのカット数が増える感じ)、インプロビゼーション力が上がってくる感覚は、音楽のライブ感があっておもしろい。

 

もちろん、たとえ事実であってもその認知は、微妙に人によって異なる。事実だけを淡々と記述するように努めたとしてもだ。だったらその努力もせずに議論の土俵にみんなで上がろうものなら、どうなるかには目に見えている。