ちび龍の修練場

文系総合職のふつーのビジネスパーソンが、食いっぱぐれないキャリア構築と、社会変革の両立を考えていく思考のラボ。

ひとりごと:人事は神の見えざる手にあらず

人材エージェントの仕事をしているとき、需要と供給の双方を毎日見ていることによって「この求人、もうちょっと条件をこうしないと人来ないよな」とか、「この人、もう少しこっちの経験が厚ければ選択肢が広がるのに」という、なんというか「物差しで測ったときの足りなさ(あるいは逆に充足度)」を可視化しながら物事を見ていた。そうでないと務まらないし、要するにただの職業病なのだが、なまじ需給の動きとバランスが見えてしまうだけに、自分は自身の中心に「人を評価的に見てはいけない」という倫理観を意識的に据えるようにしていた。

 

これをしないとどうなるかというと、下界の人間を差配する神の気分になってしまうのである。そういう人を見かけることがあったし、構造的にはそうなるのも分からない、というくらいまでは理解できるような(仕事上)同じような立ち位置にいた。本人からすれば、そんなふうには思っていないよ、大げさな、という感じかもしれないが、何様だという言葉を浴びせられた需給のいずれか、あるいは双方の立場の人間の目にはそう映るのだ。潜在的な意識は、言葉や所作に出てしまうものである。人と近いところで接する仕事ほど、本音が顔や言葉に出る。

 

市場を見ているエージェントのみならず、企業内人事でもそういうところがあるだろう。いや、企業内人事はさらに看守の役割も兼ねそろえてしまっているかもしれない。主観が織り交ざっているかもしれない社内の噂や、大小さまざまな過去の履歴、人事への愛想のよさなどを犯罪履歴のように呼び出し、社内の都合で下界の人間の立ち位置を差配する…。まあ、後者の仕事はしたことがないので、憶測にすぎないし、もちろん素晴らしい人事人もいるとは思うが。

 

自分が最初の転職をするとき、周りの人たちのおかげで、人づての紹介案件のみで検討をした。少なくとも客観的には自分の市場価値は高くなかったし、いくつかの案件は案件側も市場価値計測不可能なものもあった(こっそり同期に与信調査くらいはしてもらったが)。自分自身もそうだったが、市場における効率的で効果的なマッチングを行うために、需給バランスを見て、その物差しで測る。これはこれで市場という仕組みにおいてある程度お互い必要だ。でもその物差しでは計測不可能な例外だってある。需要供給ともに、市場での取り扱い数が少ないものは外れ値となるケースが少なくない。あくまで、エージェントの使う物差し的視点は、メインストリームのケースから導き出される法則性に基づいている。婚活市場に話を置き換えれば、なおさらだ。

 

人を評価的に見てしまう人は、その椅子にどっぷりと腰かけてしまって、評価の目にさらされる経験が少ないのかもしれない。冒険心などなく、自分にとって難しくない仕事をしているうちは、そして差配する側にいるうちは、評価が低くなる心配などとは無縁なのだろう。

 

とりあえず、自分神かも、と思っていた人はまず人間になってほしい。いや、意識の奥底で「ちょっと神かも」と思っていたことにまず気づいてほしい。